どんぐり学舎

かてごりー:小中学生のこと

「せめて幼児期だけでも」って?オルタナティブ教育のその後

新聞記事からの引用です

2015年10月22日 朝日新聞教育面 「学びを語る」連載

「クレヨンハウス」編集統括 吉原美穂さんによる

~様々な幼児教育  「自分で考える子」を育てる~ 

小中学校段階のフリースクールなどでの学びを義務教育制度に位置づける動きがあるが、幼児教育では元々、通常の幼稚園や保育園と異なる、特色を持った実践が多い。どんなことをしているのか。

フリースクールなどの学びが公に位置づけられ、学びのバリエーションが豊かになることに期待したい。「もう一つの」を意味する「オルタナティブ」な教育は小学校段階以降、続けにくくなることを承知で、「せめて幼児期だけでも」と選ぶ保護者が少なくないのだ。

たとえば、思考、感情、意志の調和を目指すシュタイナー教育や、子どもの発達を見つめ自主性を信じて伸ばすモンテッソーリ教育を採り入れた保育園・幼稚園は全国各地にある。

フランス発のフレネ教育では、作文などでの自己表現を大切にする。ソ連時代のロシアで始まったニキーチンの教育は体育や積木が特徴的だ。リズム遊びと描画で知られる日本の「さくらさくらんぼ保育」も広く行われている。

「森のようちえん」は、野山を歩くなど自然体験を重視した取り組みだ。望むような教育の場が周囲になく、親同士で自主的に始めた、との手紙を読者からもらったこともある。

それらはアプローチは違っても、幼児期を心身の発達期と捉え、知育に先走らず、子どもの自主性を重んじる姿勢は共通する。そこで育てているのは、ひとことで言うなら「自分で考え、行動できる子」だと思う。園によって、ある時間に外で遊ぶ子もいれば、室内で手仕事をする子もいる。何をするかは子ども自身に任される。年少の子は年長の子を見て遊びや生活習慣を覚え、大人の指示を待つことはない。右へならえではなく、私として、みんなと生きられる子が育つ社会でありたい。

 

読み終わって思わず、「惜しい!!」と叫びそうになりました

「せめて幼児期だけでも」って…?

「自分で考え、行動できる子」を育てるため、「オルタナティブ」つまり

「もう一つの」教育法を選択し、

未就園~園児期を過ごす

「小学校段階以降、続けにくくなることを承知で」!?

 

長年、疑問に思ってきたことを、明文化された気がしました

「なぜ、自然育児を一生懸命してきた親たちがこうなってしまうのだろう」

「なぜ、せっかくあの園を出たのにこうなってしまうのだろう」

それよりもっと前の段階で、

「オルタナティブ」とは逆の、一般的な…もしくは、逆の意味で変わらぬ人気の、

教育熱心な…色々やらせすぎる園、子どもたちをびしっとさせすぎる園については

より多くの疑問を感じていますが、

いわゆるオルタナティブ園を活用し、子どもたちは毎日生き生きと過ごし、

なのに…

「せっかく幼児期あんな風に育てていたのに…」という「惜しい!」感覚は、

長年あったのです

吉原さんの文の締めくくりでも、希望的観測というか、今はどうにもならないけど、というか、

それでも「せめて幼児期だけでも」という方にはクレヨンハウスを読んでお守りにしてね、

というしかないのか、

結局、小学校へ上がったらどうしたらいいの!?っていう、明らかな回答は含まれていないわけで…

それは、仕方のないことなのでしょうか

 

少なくともわたしは、

「子どもの心身を守り育てながら本物の思考力を身につける」学習法を見つけ、

実践し、指導者として日々過ごしているわけです

もちろん、上記の教育法のいくつかはかなり勉強しました

 

シュタイナー教育とは17歳の時に出会い、10年以上学び続けました

今ほど知られていませんでしたが、通信講座も受け、ただただ、心地よく、大好きな理論でした

(実は10年後くらいにどんぐり理論に出会い、シュタイナー教育に関して感じていた矛盾点が

解決して、新しい考え方に転換してきました。結局、ここは日本だ、ということが重要だと

わたしは感じています。)

通える範囲ではなかったのですが、

県内ではもっとも純粋なシュタイナー教育を実践している幼稚園に見学にも行きました

モンテッソーリも興味深く、採り入れている園をやはり見学しました

さくらさくらんぼ保育についてはわたし自身が子どものころから縁がありましたが、

わたし自身がその保育を受けたわけではなく、

(でも、母は現地まで見学に行き、勉強していたようです)

大人になってから、提唱者の斉藤公子先生の著書は数え切れないほど読み、勉強会もしました

県内でもしっかりとさくらさくらんぼ保育を実践している園がいくつかあり、

やはり見学に行ったり、遊びに行ったりして魅力を感じましたが、

なんとなく、自宅でできるだけ育てたかったわたしには、

なるべく0歳から入園させるべき、という方針があわず、

入園は叶いませんでした

それに、

今も、園や小学校に入る前ももちろん大切で、手を掛けるべき時だ、とは思っていますが、

小学校に入った後の親の「防御壁」の役目が、もっと重要だということを、

幼児を抱えた状態のわたしも少しはわかっていたのです

どんなに入学前を大切に、丁寧に育てたとしても、

あっという間にかっさらわれる、というか、台無しにされてしまう、言葉は悪いけれど、

そんな事が実際に起こっています

 

園児時代と違うのは、もし、上記のような「オルタナティブ」園に通わせていた場合、

家庭内はともかく園では、特徴的で、共通する、

「心身の発達期を、知育に先走らず、子どもの自主性を重んじ」て育てていただいた、

これに反して、

小学校に上がると今度は小学校ではわたしが思うに

その正反対のことをなされてしまうわけですから、

それまでの育て方を生かすべく、その方針を死守するには

「家庭で守る」しかないということなのです

それが、「防御壁」なのです

 

自然派育児や、オルタナティブな教育を実践しようと努力してきた親御さんたちの多くが、

実際には真面目で、純粋で、素直な方が多いように感じられます

だから、

小学校に入ると、

今度は小学校の先生のおっしゃるとおりのことを忠実に実践させようと努力なさっています

たとえば、「宿題を忠実に守らせよう」

と、漢字練習も、計算ドリルも、音読も、

子どもがどんなに嫌がっても叱りつけながらでもやり遂げさせます

就学前に、自由に自主的に、と育てられてきた子ほど、

そういうことに抵抗感があるはずなのですが、

そんなことはもう忘れてしまったかのように、

とにかく「言われたことはきちんと守る!」と角を生やしてしまいます

そして、たぶん、実は、

「本当にこれでよいのだろうか…」と

心のどこかで悩んでいるのです

違いますか

 

近所に、もっと簡単に、保育料さえ払えばまあ安全に預かってくれるだけの園があったのに、

わざわざ園の特色を吟味して、入園させ、

送迎や、親としての園での業務にも万障繰り合わせて参加して、努力を続けてきた親御さんたちです

本当は、小学校でもあの頃のように見てくれたら…と

時々ふっと思ってしまうのではないでしょうか

だって

あの頃、子どもたちは生き生きしていた

目が輝いて、自由奔放で、自分のことを自分で考えて、行動していた

逞しくて、素直で、まっすぐだった

それは、園児だったから、幼かったからではないのです

そのように見守ってくれる大人がいたからです

子どものことを知り尽くし、日々研究し、ひとりひとりのことをよく観察し、対応してくれるプロに

見守られていたからです

小学生になったんだから、やるべきことを日々ちゃんとやって、

勉強も宿題も習い事も、たくさんやるのが当たり前!!なんて、

どこで急にそんな線を引くのでしょうか

小1プロブレム?

年長さんと小1の間に、どんな壁がありますか?

わたしには見えません

年長さんだから、もう小学1年生なんだから、と壁を作っているのは、大人たちです

 

川が、海に流れ込む河口のように、

そこは、淡水と海水の入り交じる、複雑な場所です

そこをどうくぐり抜けるかで、その後の生き方が決まると言えます

淡水から急に海水に放り込んでも、易々と生き抜ける子もいるでしょう

でも、

それが本当のその子の力なのか、はたまた、なじんでいるように見せかけるのが上手なだけで、

実はとっても無理しているのか、

それは後になってみないとわからなかったりします

「なじんでいる」「うまくやっている」と思いたいから、親は、その見やすい面だけを見て、

安心しようとする傾向があります

そして、淡水から海水に放り込まれてすぐに、おぼれてしまう子ももちろんいます

それがプロブレムの一面なんですね

 

園時代は、ひょんなことで先生に我が子のことを指摘され、あれ?って思い直しましたね

(今では、そういう先生も減っているらしいと現場から声を聞きますが…)

小学校に上がると、

やれ提出物が、やれ遅刻だ、やれテストの点数だ、と、

その子がいったい何を考え、なぜそうなっているのか、なんて追求もせず、

ただただ、目に見える点だけを指摘されますから、親も、そこをなんとかしなければ、と

対症療法で乗り切る…つまり、勉強に不安があれば塾へ

運動が不足しているから、みんながやってるから、やりたがるから、と

スイミングスクールへ、スポーツチームへ

その子が本当は何を感じ、どっちを向いているのか、なんて、確認する方法もわからないまま

ゆっくり、子どもと向き合う時間なんて、なくなってしまっていることにも気づかないまま

 

本当なら、小学校の先生にそうあってほしいなあ

思うのです

子どもを毎日観察することができる、プロとして、

親に教えられることがたくさんあるはずです

観察眼と、子どもたちへの愛情と、あたたかい心を持ち合わせていないと無理でしょうけれど…

 

昨日も、

小学校で(保護者として)とある作業中に、

わたしたちの存在に気づかず児童を叱りとばしている教師の現場を目の当たりにしました

たぶん、わたしたちがいることに気づけば、あんな感じじゃなかったのでしょうけれど

男性言葉で、フルボリュームで、衝撃的な(声だけ聞いていると殴りかからんばかりの)口調で

児童数名を叱りとばしている女性教諭でした

「黙ってるんじゃねーよ!」

「…はい!」

「はい、じゃねーだろうが!!何か言わないのか!担任にもそうなのか!」

子どもたちが、絞り出した「はい」が、

さらにその教諭を怒らせて、仕舞いには

「いいから来るな!そこにいろ!!」と廊下に取り残された子どもたち

噂には聞いていたけど、初めて目の当たりにしたその教諭の様子に、

わたしたち親は正直「びびって」しまった(それくらいの威力)のですが、

実際には子どもたちは「麻痺」しているようで、そうは堪えていない様子でした…

 

理由があっても、問答無用

とは、様々な教育現場での子どもたちからよく聞く話ですが、

有無を言わせず子どもを怒鳴り続ける大人って、

教育者としてどうなんだろう…と

心から思いました

そんなことで子どもたちをどう成長させようというのでしょう

 

世の中に出れば、そんな理不尽な大人もいるよ~

早いこと免疫をつけられていいんじゃない?逞しく育つよ~

なんて言う人もいますが、小学生が大人を見て成長するとすれば、それは「模倣」です

先生のすることを、「手本」として得てしまうのです

それは、親も同じですが…

 

こだわりのある園では先生同士の勉強会も多く、子どもたちについて真剣に、

特に子どもの心身の発達について真剣に話し合いがなされていることでしょう

そんな風に子ども時代を見てもらえることは素晴らしいこと

なにができる、できない、だけじゃなく、

なぜできないか、どう導くか、真剣に議論し合う保育者を何人か知っていました

そしてそれを堂々と親に伝え、親と共にまた議論し、工夫を重ね、

子どものために真剣に日々を過ごし合う

 

「せめて幼児期だけでも」なんて、惜しすぎる

その後が肝心なのです

河口にいる時期を大切に育ててくれる先生に出会えなかったら、

親が守るしかない

親が、家で、淡水と海水を徐々に混ぜながら、本当の子どもの発達に沿って育てる

その妨げをするものがあれば、防御壁になって、守るしかないんです

小学校の先生が、発達や、幼児教育や、子どもの脳の成長について熟知していると思ったら

それは間違いで、

そんな先生は滅多にいません

小学校の先生は、「小学校でどう育てるか」ということを勉強してきている専門家です

集団生活、教室作り、そして、文科省の決める学習指導要領の徹底

いまは、組織が強く、先生がひとり勝手に「このクラスはこうしよう」などと、

教科書を逸脱したり、宿題を調整したりするような自由が許されていない学校が多いようです

そんな中、子どもたちはそれでも確かに、たくましく、

なんとなく麻痺したり慣れたりしながら

女の先生に男言葉でなじられるのにも動じないくらいに

親が見ていても、そうそう問題を抱えているようには見えない状態で、過ごしていくかもしれません

(問題を抱えて、sosメッセージをわたしに送ってくる子は何人もいますよ)

でも

誰が気づいてやれますか

誰が心から子どもを安心させ、なんの心配もないよ、って抱きしめてやれますか

本当はちゃんと理解せずなんとなく過ぎてしまっていること

本当は理由があってできないこと

本当は…

 

園児時代は、子どもの描く絵を見て様々なことに気づく先生がいました

子どもの歩き方一つで、おかしいな、って迎えに来た親を呼び止める先生も

 

昨日は怒鳴られた子どもたちが「クソババア!」と陰で言っていただけです

そして、腹が立ったら相手に怒鳴り散らす、というお手本をしっかりと、身をもって学んだのです

同じ「先生」でも、

子どもを見る目、子どもとの接し方、随分違うものですね

 

さあ、親としてどうするか

わたしたちは、「せめて幼児期だけでも」では意味がないことを、知って行動しなければなりません

「自分で考えて、行動できる子」が本領を発揮するのは、

中学生になってからなのですから

その前に志し半ばで、せっかく大切に育ててきた「自主性」と「思考力」の小さな芽を

摘み取って、失ってしまうのは、

あまりにも「惜しい」とは思いませんか

ぷろふぃーる
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