どんぐり学舎

かてごりー:どんぐり倶楽部について

生きているということは考えているということ

父は幼い頃から今と変わらない口調で

今思えば結構哲学的な(?)話をわたしにしてくれました

一緒にお風呂に入れば、なぜ水はあふれるのか、水はどこへ行くのか

友達とトラブルを起こせば、なぜ人は生きるのか、人と生きることをどう受け止めるべきか

考えなくなったら人間ではない

なんにせよ、よく考えなさい

考えた結果、決めたことならそれが自分の生き方なのだと

 

食卓で話題にのぼった事柄から

国語辞典や百科事典が食べ終わったお皿をどけて占領することもしばしばでした

父は鉄道員で

旅をする仕事でしたから、

旅先(仕事先)の土地の話、気候の話、お客さんや、いろんな土地から集まる職場の人の話、

「ねえねえ、あの話、もう1回して」と頼むほど、

そして、今でもいくつかのエピソードは覚えているほど、

父の話はこどものわたしには鮮烈で、そして楽しみなものでした

 

昔から、そして今でも、政治に深く興味を持っていて、

常に厳しい目で我が国の政治を見つめてきました

選挙権を持つ前から、それが国民として当然のことだと教えられてきましたが、

父は自分の思想を押しつけるのではなく

常に「自分の頭で考えて、自分の意見を持て」と念を押してきました

そして、真っ向反対の意見の人との議論の大切さも、常に語っていました

これが正しいのだ、こうせい、ああせい、と押しつけてくることはなく、

ハーバード白熱教室のサンデル教授のような

解答は出さずに多方面から考えさせるという話の展開が

子ども相手でもいつものことでした

いつも井上ひさしさんの『不忠臣蔵』を例に挙げ、

一方的な見方で決めつけて認識してしまうことの怖さと

真実はどこにあるのかを追求する大切さ、おもしろさ、を教えてくれてました

 

考え方の癖というのは幼い頃に身につくのでしょうか

それともDNAなのか、わたしはいつからかすっかり父と同じように物事を考える癖がついていました

疑問を持って考えたり、調べたり、深く首をつっこんだりすると

今まで見えなかった事柄が次々と出てきて、

生き方や、家族、仕事、仲間とのつながりにおける自分のありかたの選択肢が

どんどん増えるのです

 

みんながこうだからこう、

みんながしているからする、

あの人が「正しい」と言ったから正しい、

テレビで言ってた、偉い人が言ってた、本に書いてあった、国が決めた…

正しいか間違っているかではなく、自分の頭で考えたかどうか

考えて、選択して、生きているかということ

 

なにも考えないでも生きていける便利な世の中で

その激流に巻き込まれ、流されずに(適度に流されつつ…)生きていくことは

ちょっとつらい時もあるけれど、でも、だいぶ快適なのです

なにより、「生きている」という感覚が強いです

 

中学生を主にみていた時期が長く、塾なんてそもそも不要だと

塾講師をしながらもずっと思っていたわたしですが、

小学校低学年から「勉強がきらい」と言う子が増え、

中学生になって全く自分の頭で考える方法を知らない子が増え、

もっと知りたいと食らいつき、尋ね、自ら調べる意欲のある子はどんどん減っていく

いったいなんなんだろう、

子どもたちをとりまく環境はどうなってるんだろう、

学校で勉強して、さらに塾で勉強して、

それでも勉強は苦痛で、それでもやらなきゃいけないと強迫観念に押されているかのよう

 

目の間にいる子たちを救いたいという思いはずっとあったけれど、

どんぐり倶楽部の糸山先生の理論を知り、確信したのです

子どもたちがなぜ始めたばっかりの勉強を嫌うのか、

中学生がなぜ考える頭を持っていないのか、

しっかりと、理由がわかったのでした

 

そしてわたしがどんぐり学舎という小さな教室でできること、すべきことも

はっきりとわかったのでした

考えて考えて、迷って迷って、間違って、戻って、泣いて、笑って

まだまだ続くけれど、今目の前にいる子どもたちと共に

わたしは生きているんだ、と実感するのです