どんぐり学舎

かてごりー:自分のためのべんきょう

襟を正そう、おとなたち

朝日新聞

2017年8月30日(水)

オピニオン&フォーラム欄 『耕論』 「子どものため」って?より 

歌手・俳優の美輪明宏さんの文章

生き様を見せることこそ

私が一番多感だった子ども時代は戦時中でした。長崎の実家はキャバレーのようなカフェや銭湯をやっていて、昼間とは違う大人たちの姿を見て育ったので、かわいげのない、変わった子どもでした。

 普段は立派な身なりの人が意外とだらしのない体で、ヨイトマケのおばさんが立派な体だったり、官職にある人がお忍びで来て、ホステスにいたずらしてヘラヘラしたり。そんな大人たちが「ねばならない」と押しつけていた軍国教育は、長崎にも原爆投下を招いた末の終戦で全てひっくり返り、美徳とされてきた価値観は悪徳になりました。

 私は、そんな大人たちを見て思ったんです。ひとの人格や立派さは、容姿や年齢や肩書きなんかとは一切、関係ない。目の前にいる人の魂が、ただ清らかであるかどうかだけを見るようにすればいい、と。その思いは、今に至るまで変わっていません。

 子どもは、複雑怪奇な生き物です。特に、分別がつく前の幼児は常にくるくると動き回り、何をするかわからない。でも、幼児だと思っても、大人以上の冷徹な思考で人を観察しています。親や教師の心や動き方も、どこかで見ている。この人はあの人が嫌いなんだとか、この人はだらしないとか、ちゃんと勤務評定をつけているんです。だから、そんな大人が「子どものため」と言っても、腹の中でせせら笑う子もいます。

 それなのに、こんな政治で、国が道徳を教科化?笑っちゃいますよ。ヒステリーをおこし、「記憶にございません」と言っていれば大丈夫だと教えるんですか。政治だけではありません。いじめで自殺した子がいるのに、保身に走る教育委員会。金儲け主義で、暴力やグロテスクな表現ばかりの漫画やゲームや映画。お前のためだと言いながら、自分のミエや人生の尻ぬぐいのために、子どもを塾にがんじがらめにする親。大人がやるべきことって、そういうことなんでしょうか。

 本当に愛情をもって子どもを導くには、まずは導く資格があるかどうか、我が身を振り返ることです。特に今は本を読まない大人が多く、言葉遣いもめちゃくちゃ。あいさつや敬語の使い方も子どもに伝わり、人生を左右します。本当に「子どものために」と思うのなら、まず大人が本を読み、日本語の勉強からし直した方がいいと思います。

 「人のハエを追うより、自分の頭のハエを追え」って言いますでしょ。子どもは、親の背中、大人の一挙手一投足を見て育つ。本当に子どものために必要なのは、どんな教育よりも親の生き方、大人の生き様なんです。その上で、時に突き放して苦労から学ばせる厳しさと、時に身を挺してでも守り抜くバランスが、子どもへの真の慈悲になるのです。

 

精神科医 春日武彦さんの文章

大人社会がまず変わって

 「子どものために」という言葉を聞いて、素直に「そうですね」と、他人の子どもについても自分の子のように思える大人がいまどのくらいいるでしょうか。

 昔から、「子どもは社会の宝物」といった言い方があります。頭では分かりますよ。この国の存続には子どもがちゃんと育つことが必要だ、と。

 しかし、今の現実世界では、隣の子のことはよく知らないし、公園で下手に声をかけると変質者扱いされる。隣の子とすらリアルな一対一のつながりがないのに、ひとくくりにされた「社会の子ども」に親身になれますか。

 昔は違いました。私の子ども時代、野球をやっていると、知らないおじさんが「俺にも打たせろ」と言いながらバットを持ってやってきた。しつけをしてくれる近所の大人もいました。地域に共同体があり、よその子とのつながりも感じられました。

 なら昔に戻そうという発想は単純に過ぎます。個人情報の保護が優先される時代では、隣近所にも家族のことを知られない方がリスク管理にかなうとされます。子どもが性的な対象になる犯罪が目立ってきた現実もあります。

 そもそも大人同士ですら、近所でリアルなつながりがない。大人の共同体が崩れたなかで、その社会で宝物のように共有できる子どもなんていなくなったのです。にもかかわらず、「子どものために」と言うのは、大人の社会が崩れていることをごまかすようなものです。

 いまや「子どものために」と呼びかけるのは、大人の共同体が存在しているかのように装い、いもしない「共有の子」のために頑張ろうと言い募るようなもので無理があります。

 いっそ「大人のために」と言った方が自然です。大人が住みやすい社会にするために、まずは大人同士で考え、そのうえで子どもとどう付き合うかを考えるのです。

 精神科医として他人の心の闇を見てきた私でも、道であいさつされたら無条件に「世の中まんざらでもない」と思う。人間の心には単純なところがあって、あいさつ一つで違う世界とのつながりを感じられるものです。他人のえたいの知れなさを埋めるために、あいさつのような無難なこともできない社会で大仰な言葉を吐いても仕方ありません。

 地域での礼節を大切にしましょうと言ったら、すごくつまらなく聞こえるかもしれません。「結局、道徳か。」と。ただ、学び手になるべきは大人です。大人が互いのつながりを取り戻さないことには、子どもとのリアルなつながりも取り戻せません。大人同士の壊れた関係を直視し、修復を考える。その方がよほど子どものためになります。

 

 

そうなんですよね

周囲を見ても、メール相談などで一緒に考えていても、思うのですが、

「大人」が、大人じゃない気がするんですよね

でも、外見や、年齢は「大人」だから、こういう指摘をされると傷つくし、腹が立つんでしょうね

しかも「お前に言われたくない!」って私なんか叩かれそうですよね

だから、

ぐっと本物の大人のお二方の意見を引用させてもらいました

わたしも早くかっこよくて優しいおばあちゃんになって、

大人になれなかった大人の方の話を聞いてあげたいな…

 

「大人」になる

って、自分一人じゃ無理なんですよね

結論から言うと、やはり、そのように育てられてしまったんです

 

でも、いつまでも「そう育てられてしまったんだから無理」って

自分以外の、どうにもならないところに責任転嫁していても先には進めないし、

いつまでも楽になれないんです

 

いまや、何でもありで、様々な世界で、大人が大人らしくいることの美学とか、

すでに死語の世界ですけれど、

それって、「女らしく」とか、フェミニストの方々を逆なでするような言葉と似ていて、

大人が「大人」になりきれていないから

その境界線が曖昧だから

「大人」ってなにさ

って

大人が幼稚化しているのだろうな、って感じます

 

文化は多様化し、価値観もそれぞれでいいじゃないの、って世の中は寛容です

 

でも、子どもが思うように育っていない、と気づくや、

「国」が「道徳観」を植え付けようという動きが始まる

メディアなんか今ほどなかった時代だったら、

国からの言葉で子どもは操作できたかもしれない

でも、

子どもたちの情報源は大人には特定できないほど

ただ、

昔から変わらないのは、

子どもは身近にいる大人をよく見ている、ということ

特に親や先生がしていることは、

全て手本になっているということ

 

そんな自覚もないまま、親や先生をしている人が多すぎる

 

子どものせいではありません

ぷろふぃーる
« 2017年09月 »
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

あーかいぶす

最近の記事

かてごりー

どんぐり学舎 RSSフィードはこちら