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おさなごを発見せよ―羽仁もと子選集 おさなごを発見せよ―羽仁もと子選集
羽仁 もと子

婦人之友社 1995-10


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先日、先輩ママに教えてもらって、

今更手に取った、1965年に初版が出された育児本です

2015年に23刷!多くの方が読んでいるし、多くの悩める親御さんたちが

これを読んで、心を揺らし、

すでにブログにアップし、感想を書いていらっしゃいます

羽仁もと子さん

お名前は知っていたけど、どんな人だったかな…

有名な方で、先輩ママさんたちにはよく知られた方のようでした

 

著者略伝より抜粋

羽仁もと子

明治・大正・昭和の三代にわたって、日本の社会の中に、生活を土台とした独創的な活動の新分野を開拓した、思想家・雑誌記者・教育者。

明治六年(1873年)青森県で生まれる。

明治三十年、報知新聞社に入り、本邦初の婦人新聞記者となる。

明治三十六年、夫、羽仁吉一とともに、今日の『婦人之友』の前身、『家庭之友』を創刊、逝去までの五十四年間その主筆の任を負う。

一方、大正十年(1921年)当時の女子教育とは内容も外観も著しく異なった自由学園を開いて、人間教育の樹立を志す。

全国に広がる『婦人之友』の読者の集まりである「友の会」のリーダーとして、戦前・戦中・戦後も一貫して、家庭を通して人と人とが自由を学び、協力し合い、愛のあふれる社会を創ることにつとめた。

昭和三十二年(1957年)永眠。

 

あまりにも長く、深く、一貫した強くたくましい活動にあふれているのに、

わたし自身、羽仁もと子さんについてなにも知らない状態でなにを紹介したいかといえば、

いま、

わたしが、この本から得たいくつかのヒントについて

古い文体にどこかほっとしながらも、一気に読み終えてしまった魅力的な内容の

ほんの一部ですけれど、

わたしが伝えたいことと、この本の内容で一致する部分を少しだけ、

ご紹介したいのです

 

自然の指示

 私は、毎日ふたりの子供-数え年の三つと二つ-を育ててゆくうちに、いつもしみじみ思うのは、私ども人間の親が決して子供を育てるのではなく、自然というすべてのものの親が、自分の子供をも、やはりその大きな御手のなかで、毎日育てていてくださるのだということです。私どもはよく正直に、自然の指示にしたがって、その命ずるままをするならば、子供は確かに健康に快活に成長すると思います。

 自然の指示とは何でしょうか。子供の眠がるのは、寝かせよという自然の指示です。ひもじそうにみえるのは、乳をあたえよという命令です。子供の眠たいときに眠らせ、空腹のときに乳をやり、活動を欲する時に活動させ、少しも自然の指示にそむかないならば、むずかるなどということはほとんどないと思います。眠たい時に眠らせ、ひもじいときに乳をやるというと、じつに雑作もないわかりきったことのようですが、子供のほんとうの要求を目早く察するということは、決してたやすいことではありません。相応な育児の知識と、細心な注意を欠いている母親は、子供が眠くなっているのに心づかず、騒々しい取り扱いをして、いつか寝時をすごさせ、そのためにむずからせたり、宵っぱりのくせをつけたりします。乳をあたえるよい機会をたびたびあやまると、子供の胃の腑もついには時知らずになってしまって、何かにつけて乳を思い出して、むずかったりするようになります。人の身体は生きた微妙な機械だということができましょう。その取り扱いをあやまらないならば、食後一定時間に空腹になり、ある時間ある量の活動ののちにかならず眠くなるわけでしょう。ことにわれわれの肉体は、微妙な生きた機械であるだけそれだけ、くせのつきやすいものであることを考えてみると、まだ何のくせもついていない、新たに生まれたままの赤ん坊を、母親がほんとうによく取り扱って、全身の諸機関が天然の法則にしたがって、自由にはたらき自然に休み、そのあいだにずんずんと楽しく成長してゆくことができたら、どんなに嬉しいでしょう。眠るときも乳をのむときもさだまらず、怒ったりむずかったりすることの多い赤ん坊は、ただまったく取り扱い方の不自然からくることです。

 

明治六年生まれの羽仁もと子さんが、

子育てに関して「母親」についてしか書いていないのは

時代的には仕方のないことで、

羽仁さん自身の生育環境や、

夫吉一さんについて、また、ご夫婦についての

様々な著書や論文などを読んでみると納得できます

こうして引用してみると「母親」ばかりに責任がまたのしかかる思いがしますが、

わたし自身も感じている、母親と父親の役割、

それぞれの特性を生かした子育てということにおいても、

父親は、このような文章を読んで、母親である自分の妻への思いを抱いてほしいと願います

 

さて、これは一番最初の章の内容です

現代の育児は「密室育児」とも呼ばれ、

どうしても、社会から孤立したようなひとりの親(主に母親)が、

赤ん坊とふたりきりで過ごす時間を強いられますから、

母親の責任だ、とか、

母親がしっかりして、とか、

そんな言葉が精神的にどんどん「母親」を追い詰めるのですが

それでもやはり、子を授かったことで、「親」にさせてもらったわたしたちは、

せめて、

乳飲み子を育てている間くらいは、

このように、自然の摂理に逆らうことなく、哺乳類として、人間として、

未熟な幼体を基礎から育てるつもりで接しないといけないと思うのです

 

泣きやまない

眠らない

抱っこしていないと眠らない

昼寝をしない

ねんじゅうぐずっている

乳児のそれらには、すべて原因があります

それが、すべて母親のせい、と言いたいわけではなく、

もう、わたしたちは、「自然」ってなんなのかわからないような環境で

子育てをしているのであって、

窓の外では自動車の走る音や排気ガスが

すべての道は舗装されていて、土や草のにおいもしない

家の中には電子機器があふれ、

ただ家事をしているだけなのに、すでに赤ん坊には、

ありとあらゆる電磁波的なものが降り注いでいる

「自然」の摂理で生まれてきたばかりの生き物、乳児は、

もしかしたらそれらのどれかに拒絶反応を起こしているのかもしれない

羽仁さんがこの文章を書いた時代よりもっと、

わたしたちは注意深く子どもたちの環境を整えなくてはならないのです

 

それでも

夕方、コンビニやスーパーで乳児を見かけるとはっとします

いまや、夜、煌々と照明の光るなんらかの店内で乳児を見ることも珍しくありません

あんなに浴びたら…寝ないだろうなあ…と心配になります

あれが日常なら、落ち着かない子に育ってしまうだろうなあ…と

 

お昼寝をしない、という相談も、乳幼児を抱えた人から受けるけれど、

どういう環境にしているか聞いてみると、たいてい、大人の環境設定が誤っているのです

 

どうすべきか、なんて各自ができる範囲で努力と工夫をするしかないのですが、

我が家のしていた生活は、といえば、

生まれてきてくれてから、乳幼児期の生活はまず第一に生活リズムを優先しました

朝、子が目覚めてから夜眠るまでの生活リズムは、大人の都合で簡単に変えませんでした

仕事や、用事など、大人の都合を挙げればキリもありません

でも、その数年間を整えるだけでその後の子どもの全てが決まる、と

わたしたちは知っていました

だから、その時々の大人の欲求を抑えてでも、

いまの子どもの瞬間を大事にする、と覚悟を決めていました

そんな時期、あっという間に過ぎてしまいましたが

 

食事の時間は大幅にずれないようにしました

授乳は卒乳まで変わらず、24時間に8回、3時間おきでしたが、

時間をはかったり、そのために神経をとがらせたりする必要はありませんでした

最初だけ、ぎゅっと頑張ると、子どもの方がリズムを整え、だいたい時間通りに欲してくるのです

逆に、リズムが狂う時は体調を崩している時でした

とてもわかりやすいです

今でもそれはあまり変わりません

午睡(ひるね)は1時間前くらいから、遊びの質を考え、少しずつ環境を創りました

激しい外遊びから、手足を洗ってクールダウンして、

午前11:30頃には朝つくっておいた昼食を食べさせ、

カーテンをしめて薄暗くした部屋に一緒に横になって、

絵本を読んだり歌を歌ったりしながら背中をさすって

笑顔で見つめ合っているといつのまにか寝てしまう、という毎日でした

寝落ちする瞬間の顔が大好きで、

そして、仕事は産休も育休もなく続けていたので、一緒に寝るわけにはいかず、

寝ている間に超特急で授業の準備をしました

12:30くらいに午睡に入るのですが、

遅くても14:00前には自然に目覚めるようカーテンを開けたり、

近くで洗濯物を畳んだりして生活音を立てました

午後も思い切り遊ばせ、

5:30には夕食を食べさせました

首がすわるとおんぶができるので、

バッテンおんぶで高くしょい、わたしの手元が見えるようにおんぶしたので、

家事をしている様子が見え、飽きて泣くことはありませんでした

一緒に歌ったり、喋ったり、まだ会話のできない時から、

起きている間に家事もできました

ハイハイができるようになると

洗濯物を干したり取り込んだりする時にはバルコニーにぽいっと置くと、

嬉しそうに何往復もしながら、干してあるふとんに隠れていないいないばあを延々としたものです

夫が、5:30の夕食時に帰宅していることはまずなかったので、

ひとりで食事をとらせ、ひとりでお風呂も入れました

中学生の授業が始まる前に、夜の最初の授乳を済ませておき、

帰宅した夫と交代しなければなりません

それでも8:00には必ず子が眠るよう、乳児期は夫も相当努力して、

帰宅してきてくれました

夫の職場環境も年々変わり、

次女が乳幼児の時には授業開始に間に合わないこともしばしば

次女をおぶって、長女を教室の床に寝かせて授業を始めたことも何度もありました

 

子どもが寝る部屋には、電化製品を置くことも、

照明に関しては小さな豆電球でさえつけないこと、と

育児支援の講座で聞いたことがあったので、真っ暗にしました

夜中も3時間おきに授乳とおむつ替えをしましたが、

その頃は自分が、哺乳類の親として当然だと思っていたと思います

自分たちが食事をするとか、出掛けたいとか、買い物があるとか、

そんなことより子どものリズムを優先しました

8時には子は寝てしまうのですから、大人の時間はそれからたっぷりありました

ゆっくり食事をしたり、録画したテレビ番組を見たり、レンタルした映画を見たり、

(大人の部屋にだけテレビがあります)ゆっくりできました

わたしは夜も仕事をしていますから、仕事のあと、少し休んで、

さあ、寝ようかな、という頃に夜2回目の授乳に子が起きるわけです

で、

お互いぐっすり眠った後、夜明け前に3回目の授乳、

朝、起きて、朝食の支度をしている頃子が起きるので、そこで朝の授乳、と

今でもはっきり覚えているほど規則正しかったものです

卒乳後も、夜中に起きることがなくなった以外は、似たようなものです

卒乳後はおやつが楽しみになりますが、

「お十時」「お三時」という、昔ながらの時間きっかりに、

小さなおにぎりや、ぽんせんなどを少し食べる楽しみにし、

その他、無駄にお菓子や甘い飲み物を飲むことはしませんでした

近くの工事現場のお兄さんたちと全く同じリズムで小休止

今でも力仕事の方々って、ちゃんと「お十時」「お三時」しているんですね

 

最初は、大人がリズムを作るし、新生児の頃はなかなか整わなくて当然ですが、

決して諦めずに、そして、重苦しく考えずに、

「当たり前だ」と思って生活を乳幼児中心にするだけのことです

たくさんの相談を聞いていると、

やっぱりどうしても大人の生活リズムを守ろうとしているとか、

子の自然な成長に必要ないもの、むしろ妨げになっているものを排除できないでいるとか、

生活の中に様々な原因があるにもかかわらず、改善できないまま、「そんなに頑張れない」と

諦めてしまっている方が多いです

この時点でのそのような諦めは、小学校、中学校、その先もずっと、影響を及ぼします

 

自信をもって導くこと

 子供に何事をかさせようと思うとき、いちいちああしようか、こうしようか、-別に相談するつもりはなくとも-といいだして、おのずと子供を判断者の位置に立てるようにするのは、子供をわがままにするもとです。ねんねしましょうねえ、おんぶしましょうねえ、といちいち何かをする前に、それについての子供のきげんを伺うと、子供はその時の気分のまにまに、いやならばずんずんいやというようになり、それが一層高じると、他人がこうしましょうああしましょうといえば、何でもかんでもいやいやというようになったりします。そしてそれに逆らえば泣き、したがっていた日には、そのわがままがなおさら募るばかりです。ついなんの気なしに、ああしましょうか、こうしましょうかと、事ごとに子供に伺いをたてることは、よくあることだと思いますが、気をつけなくてはなりません。子供に対するのには、つねに自信をもって導いてやる態度が、子供をして従順ならしむる秘訣であると思います。

 

色々な現場で、「子供にも人権がある」という思想のもと、子に選ばせる、子の好きなようにさせる、

ということがとてもよいことのように唱えられ、

でも、実際には間違えているなあ、はき違えているなあ、と感じることはよくあります

教育現場で「個性を尊重し」という言葉がうすっぺらであるのと同じように、

「子供の人権」を

というのは、子になんでも選ばせ、決めさせることとは少し違うような気がします

まず、時期が違うと感じるのです

ごく小さな子に、「どっちがいい?」と聞いている親はごまんと見てきました

「食べる?」と尋ねるのも、

「ほしい」といったらすぐに与えるのも、全て同じことです

一見、子に選ばせること、子の要求に応えることは、

子の心によいことのように感じられますが、

子には、選択の仕方を見せなければならない時期があると考えます

確か、松井るり子さんの本だったと思うのですが…

(調べたけどこの部分が見あたりません)

 

おばあちゃんちで遊んでいて、帰る時間になり、

親が「帰りましょう」と言っても

子は今、遊びに夢中ですから「帰りたくない」と言う

おばあちゃんも「いいじゃないの」といい、

親はあきらめて先に帰ることにする、

でも、まもなく、親がいなくなってぐずった子を

迎えに来て、とおばあちゃんから連絡が

 

さて、

こんな些細なことでも(日常よくあることですよね)

羽仁さんのいうように、あとあと、わがままに育つ要素満載だ、と

わたしは思います

「いいじゃないの」と子の要求を認めるおばあちゃん

いかにも優しくて、寛容で、

帰らせようとする親は子からみたら鬼ババですね

でも、

この時、親は、「いいえ、約束だから、帰りますよ」と

(子に事前に時計の針かなんかでしっかりと約束させてでも)

断固、連れ帰るべきでした

鬼ババでしょうか

いいえ

節度を守ること

約束を守ること

そして、おさなごを守り導く、親の毅然とした態度を見せることで、

親が自信をもって導くことで、

しっかりとした親子関係が築かれるのです

 

どれにする?

これ食べる?

たまにはいいじゃないの、それくらいいいじゃないの…

親だけではなく、その周囲の大人全員が、

知っておかなければならないことです

もちろん、

断固、一切、許しません!!!ということでもありません

でも、やはり最初が肝心なような気がします

軌道修正はこの先もずっと、なににおいても、数倍の苦労を要します

 

すっかりわがままに育っている子を見ると、

あーあ、どこからどうすれば…と軌道修正に苦戦する親御さんを想像します

最近目撃したとんでもないワガママ娘についてわたしの長女(中2)はぽつり

「かわいそうに…」

そう、その時かわいそうだから言うことをきいてあげる、

すると、

あとあともっとかわいそうな子に育ってしまいます

ワガママで、お友達から嫌われたり、社会に出ても、人間関係に悩むことでしょう

親、周囲の大人が示してやれるのは、

正しい選択

それを教えるべき時期に、全てを子に任せたら、とんでもないことになるのです

だから、なんでも子に選ばせ、それを「よい子育て」とする風潮に

わたしはいつも首をかしげています

 

最も身近なこととしては「習い事」「中学受験」の類です

「子どもがやりたがるから」

「子どもが受験したいっていうから」

と、

安易に認めることで、大変な思いをしている親子がたくさんいます

子どもが、選ぶ力を持っているかどうか

子どもが、認められるだけの判断力を備えたかどうか

それまでの育ち方で親なら判断できるはずです

大人の都合や、大人が深く考えないことにより

子どもが「いつか迷う」結果にならぬよう、慎重にしなければなりません

 

子守の心得

これは私の家にたのんだ子守の少女のために書いてやって、ときどき読んでもらったものでございます。

あなたに子供の世話をたのむのは、子供に何もさせたくないと思うからではありません。なぜかというと、子供に何もさせないと、第一に怠け者になり、第二に不器用になり、第三に心まで馬鹿になるからです。それゆえ、子供が自分でできることは、なんでも子供にさせるようにしてください。たやすくできることばかりでなく、むずかしかろうと思うことでも、なるべくあなたはだまって見ていて、子供自身にさせるようにしてください。自分でしてしまうと雑作もなくできることを、子供にまかせていつまでもかかっているのを、じっと見ているのは、もどかしいものです。しかし、私は、このもどかしいものを忍耐するようにくれぐれもあなたにたのみます。(続く)

 

母のねがい   電車のなかで見た母と子

 電車の中で、その母親によりかかって立っている六つばかりの男の子を見ました。「バナナおくれよおくれよ」といっています。やめてはまた言い言い、うるさく、しかしながら自信なげに。母親は気がなさそうにときどき「ないよないよ」といいます。何という物足りない母親なのだろう、どうしてもう少し真実に子供に接してやることができないのか。このようにして頭の悪い愚痴な子供がつくられてゆくのだ。多分どこかでバナナを食べている子を見たのだろう。それが欲しくてねだり通しているのを、ただないよないよとはあんまりだ。ないのだから仕方がないではないか、お家に帰れば何々がある、バナナはみつかり次第きっと買ってあげるというふうに、事実を誠意をもってやさしく、しかしきっぱりと子供にいってやらなくてはならないのに、と私は気にかけながら見ていました。「バナナおくれよ」子供はまたいいました。すると意外にも母親は手提袋のなかからバナナをだして、何ともいわずにほんとうに平気な顔で子供にやったのです。子供の方も同じように平気に簡単に食べはじめています。私はまったく驚いてしまいました。子供に嘘をいうのはよいの悪いのというようなきまりきった問題ではありません。故意に嘘をつく気もなく、ただないよないよとポンとした顔つきでいっている母親と、「あるじゃないの母さん、袋のなかに」という知恵も出ず、おずおずとねだってばかりいる子供と、この親子のあいだにはおそらく毎日これと同じ種類や調子の問答や接触が行われ通しているのでしょう。

 私は自分の学校の「ヨクミル、ヨクキク、ヨクスル」の標語を思い出していました。よく見るよく聞くよく為る、それこそジツに人間進歩の源である。この母親の教育は反対に、見ざる聞かざる為さざるの教えです。なんとみじめなことでしょう。悪気はなくてもこの母親は決してまともに子供に接していないのです。袋のなかに持っていながら、のんきに雑作もなく、ないよないよというような日ごろの母の応対に、子供の方も真面目にはっきりと母の言葉を、その心のなかにうけとめる気になれないのは当然です。言い流し聞き流しで、日々の生活の交渉はできているから有るものを無いといわれても、母さんあるじゃありませんかというような思いも言葉も出てくるはずはありません。じつに気楽で面倒のないくらし方、それですむものと思っていたら大まちがいです。この人の世はそのような無意識なものではありません。そうした無責任では通りません。言い流し聞き流しのなかで育った子どもは、はじめて小学校に上がったときから、すでに必ず劣等生の仲間にはいります。気をつけて見たり聞いたりすることがないのですから、人なみにはゆかないはずです。しかも有るものを無いといわれても平気でいるような子供は、万事にさっぱりとしているかと思えば決してそうではありません。反対にそういう子供にかぎって、バナナおくれよバナナおくれよと、それだけは幾度でもくり返しでしつこくいう通りに、自分が食べたいとかしたいとか面白いとかいうような本能的欲望にかけてはかえって強く、じつに困った見劣りのする人間になっているものです。そうしてもしもその子の性質が負け惜しみであったり、多少の才気をもっていたりする場合は、教室やすべて真面目な場面で幅をきかせることができない腹いせに、じつにくだらない悪戯だの、もっとよくないことの方に、その生活の領分を発展させてゆくものです。このようにして、母の子供に対する日々の取り扱いの調子は、じつに多くの子どもたちの力強い家庭教育になっていることをご存じでしょうか。

 

よちよち歩きの幼児の手を引いた若いお母さんが

わたしたちの前を歩いていきました

娘たちと市内の公園(森)に遊びに行っていた時です

真新しい靴を履いたその子は、よちよち歩きだけれど、高いところに登りたいらしく、

少しの段差を見つけては、飛び降りて楽しそうでした

もちろん、母の手を握ったまま

その子は、

わたしたち夫婦が座るベンチの目の前のベンチに登りたがりました

母親は、なんの躊躇もなく、その子を少し支えながら、ベンチに登らせ、

手を持ったまま、ぴょん、と飛び降りて楽しげな子を微笑んで見ていました

わたしが

夫を見ると、夫も

わたしを見ました

その子は、靴のままベンチに上がりました

母親に支えられて

 

夫も同じ事に気づいていました

え?なにがいけないの、って?

下足で、人が腰掛けるイスに、たとえ戸外のベンチであっても、

なんの躊躇もなく親が支えてまで登らせるという行為が

その子のこれからの全てのことにつながってくるなあ、と感じました

正直、わたしだって公園で「タカオニ」とかしてるとき、

靴のままベンチに登ったことはあります

やんちゃな子なら誰でも登ったことはあるでしょう

わざわざ靴を脱いで登る子なんてほぼいないでしょう

その行為そのものがけしからん!!と言いたいのではありません

親が

その道徳観を教えずに誰が教えるのでしょう

見ざる、聞かざる、為さざる

 

子の一瞬、一瞬は、私たちよりずっと、濃密で、柔軟で、神聖なものです

すっぽり懐におさまる大きさで、子がある間は、

常に意識していた方がいい、なんて言ったら、息が詰まりそうですか?

でも、

わたしたちは、子どもの前では親を演じる努力をせめてし続けなくては

信号無視をしたり

ゴミを捨てたり

汚い言葉をつかったり

ルールを当たり前にやぶったり

あえて、しないよう努めなくては

そのうち、親のことなんか視界から除外してしまいます

でも、

中心に据えている時期がある

生まれてからしばらくは、わたしたちは、子どもの世界の主人公です

憧れ、真似て、手本にして成長してしまうのです

事実に即して取り扱う

 それでは子どもをどう取り扱えばよいのか、という問に私はこう答えたいと思います。のんき無責任な言い流しとは反対に、子供にくどい細かな説明や説法をする母もまた同じように、相手に聞き流しの習性を作らせてしまいます。子供は事実と決心をもって真実に簡明に取り扱うべきだと思います。バナナはいま食べないでお家に帰って弟たちと一緒におやつに食べましょう。というように、正当な事実を母親がまずその心のなかにしっかりと決心して、簡単に子供にいってやることです。電車からもう降りる下りると聞きわけもなく泣き叫ぶ子供にそれを負っている母親は、もうじきよとか、まだまだですよ、とか、ただ同じ事を繰り返し繰り返しいっていることがまたよくあることです。子供はその好奇心のために、簡単なことならばわからないことでも、いいようで興味をもって聞くものです。あるとき賢い母親をみました。降りる降りるという子供に、あと四つ、ここは「さくら台」それまたついた「ねりま」またついた「中村橋」というようにいっていました。数の内容がまだわからない幼児でも、こういうふうにしてまぎれるあいだに、数のことにも興味が出てきて、その次に乗ったときは、きょうはいくつ乗るのと聞いたりするでしょう。前とはちがってほんとうに、母親の持っていないバナナをねだったら、持っていないのだからあげることができません、お家に帰ったら何をあげますというふうに、多くの場合事実を決心をもって子供に語り子供を扱うようにすれば、ひとりでに人のいうことをはっきり聞ける子供になります。気をつけて人の話を聞くことができれば、また自然に物を見ることも注意深くなり、見ること聞くことを確かにしていれば、その頭脳にはおのずから筋道がたってゆきます。よい頭脳とは筋道だった頭脳ということなのです。事実に即し決断をもって多く取り扱われる子供は、同時に精神的にも愚痴の少ない心持ちと強い意志の力をやしなわれてゆくように思われます。愛する子どもたちの運命をにぎっている母の手、ことに幼児の母の手はじつにおそろしいもの頼もしいものです。  

 

 

親子の愛の完成 三の途中から

 私たちは子供のために価値のある、また心から愛され得る親になるためには、まず自分は子供よりも自分自身を愛しているものだということを、真実に自覚しなくてはなりません。といいますと、あるいは皆様は承知してくださらないかもしれません。そんなことはいわないまでも、私はたしかに自分自身よりも子供を愛していると、おいいになるでしょう。それが長い間のわれわれの考え違いではなかったかと思います。私たちはたしかに子供よりも自分自身のために生活しています。子供を愛するのも自分自身を愛するからです。ある学者はそれだから、人間は徹頭徹尾利己的の動物であるといい、強いものは弱いものを蹴落とし踏みにじるのが人生である、阿修羅のようになってそうしたことのできるものは謳歌され、それをなし得ない人は意気地がないと思う人や、子供を愛するの、人のためを思うのというのは偽善だと思う人などが、いまもなおたくさんあります。しかし、私たちが親よりも子よりも自己を思うのは、利己主義ではなく、人はおのれみずからの生活をほんとうにみつめ、ほんとうにだきしめ、ほんとうにその価値を見いだすことから、はじめてほかのいのちをも愛し思んずることができるものだとおもいます。

 子供が病気になると、親の方が一層苦しいと、ほとんどすべての母親が申します。私もそう思っていたのでした。しかし、私は長く子供の重病を看護して病院にいたあいだに、ちょっと廊下をあるいて涼しい風に吹かれたりすると、ああよい気持ちだと、心から思い得ることがいくたびもありました。何かのことがあると、ほかの人と一緒にしずかに笑い得ることもありました。そうして私は、そういう折々に、ベッドの上にすこしの身動きもできずにいる子供には、こうした瞬間時のくつろぎすらもないのだと気づくことがありました。それからは子供が病んでいると、親の方が一層苦しいなどと思っていたのはまちがっている、ただに涼風に吹かれる束の間の心地よさを、みなと一緒にすることができないばかりでなく、重い病苦を負っているものの絶え間なき不愉快さに、どうしてはたの者の苦しさなどがおよぶことがあろうかと思うようになりました。そうして、このことをたびたび思うようになってからは、自分の方が子供より苦しんでいるつもりでいたときよりも、同情のふかい看護ができたように思いました。

 自分が歯の療治に通っているときは、きょうはまたその日だと思うと、あの不愉快な療治のことが、朝から気にかかるほどでした。そうして時がくるとずいぶん克己して家を出ました。しかし子供が歯の悪い時には、きょうはおいしゃに行く日だと思っても、決して朝から苦になるほどではありませんでした。そして分別顔に早くおいでおいでということもできました。同じほどの苦痛でも、直接見にうける苦痛と、間接に思いやる苦痛とでは、親と子のあいだですらも、これだけのちがいがあることを、だれだって承認しないわけにゆかないでしょう。子供が大手術でも受けるといったら、親の身になるとどんなでしょう。しかもその苦しみは、直接にその局に当たろうとする子供自身よりも大きいものである、同じものであると考えたりするのは、まちがっていると思います。

 血をわけた親と子でも、すでに二つの身体二つの心にわかれた以上は、子供自身の身体に感ずる苦痛も喜びも、その通りに親が感ずるわけにはゆきません。子供が罪を犯したときに、親の顔に泥をぬるといって怒りかなしむのは、いまの多くの親の普通にもつ心持ちです。けれどもその当事者である子供の不名誉と苦痛は、自分のこの苦しみよりも不名誉よりも、どんなに大きいものであるかに心づいて、子供自身の苦痛のために泣いてやることができるのでなければ、子供が本当に親の情けを感ずることができないのです。子供がよいことをしたときにも、一番に私たちはそれは自分の日ごろの丹誠のせいだという気になることが多いようです。それもやはり子供に同情のうすい自分勝手の考えから出ることです。(中略)

 子供が罪を犯せば、私はお前をそんなふうに教育してはいないといって、その責任を子供に負わせ、よいことをすれば、それが親の自慢になるのです。なんという手前勝手な親でしょう。子供のおそろしい直覚力は、親自身さえみずから気づかずにいる、そうした親の心持ちをなんとなく直感して、親の気持ちと自分の気持ちと、ほんとうに十分に浸りあっていないような、一種のものたらなさを感じるのでしょう。

 私たちは自分の身よりも子供を愛していると思いながら、どのくらい自分の都合や気持ちのために子供を犠牲にしているでしょう。その子供自身としてよりも、むしろ家の子として自分の子として、あれでは困るとか、こうなくてはならないとか、私たちはいちいち自分を先に立てて子供のことを考えています。親子の日々の生活はいったいこのようにすぎてゆくのです。(中略)

 私は前に、私たちは子供よりも自分自身を思うものだと申しました。そうしてそれが人の真実だと申しました。それなら私たちはなんで自分のために孝行息子をつくらずに、まず子供のために、親を愛し得るようにしてやらなければならないのでしょう。それは私たちの結婚の結果として生まれてきた子供に対して、生まれたことが幸福であり、価値のあるものであると、当人に思ってもらうことができるように、あらんかぎりの尽力をしなければならない義務をもっているからです。そうしてこの義務を果たすことができれば、それによって、自分は自分の生涯の大きな価値と幸福とを、そこにも見いだすことができるからです。

 

まだまだ紹介したい文章がたくさんあるのですが…

 

今回わたしが引用させてもらった以上の部分から、

わたしはやっぱり

まず、わたしたちは哺乳類の親として、

子がひとりで生き抜く力を備えるまでの間に、

なにをすべきで、なにをすべきでないか、

一生懸命考えて、日々の生活を送るべきではないかと思うのです

「自然に、自然に」と心がけていても、

いったいなにが自然でなにが不自然か、わたしたちにはもう、

わからなくなってしまっていますよね

わたしたち自身が、動物的本能も、自分で生き抜く力も、

すでに失いつつあるのですから

でも、

私たちには脳がある

考えることができるのです

考えて、行動に移すことが、できるのです

 

これは、自然か、不自然か

これは、子の成長に、必要か、不要か、無害か、有害か

こんな現代だからこそ、

一生懸命、毎日考える必要があります

 

「これはいいよ」と流れてくる情報の裏に、利権が渦巻くことを知る親は増えてきました

それでもまだ、子の本質を見ようともせず、流されてばかりの親が多いです

そんな親をターゲットに今日も情報が流されてきます

 

小学生になると、親の手の届かない場所で、別の生活をすることになります

そこが、信頼できる場所ならいいのですが、

そうでない場合が多いです

実際、教育のプロとして収入を得ている人たちの中で、

子の本質を、子の教育について羽仁さんのようにわかっている方はとても少ないです

子に考える隙を与えず、指示に従わせるだけの1日を過ごさせ、

どんぐり学舎に来るとまずは荒れるところからスタートするのも

悲しいけど納得するしかありません

「次なにしたらいいの?」と何度も聞いてくる子がいることも

でも、

そもそも学校に入る前から、

子どもたちはその本質を尊重されずに育ってしまっているのではないか

見ざる、聞かざる、為さざるの家庭教育を受けてきた子が、

学校に入っても先生の言葉に関心も寄せず、

授業の内容に興味も持てず、それどころか少しの時間も座っていられない状態で、

さらに規制は厳しくなる…といういたちごっこが

実際には起こっているのでしょう

 

よかれと思ってお教室や習い事に入れ、

生活習慣や基礎学力をきちんと身につけた

お友達がみんな持っているから、とゲーム機を与え、

それでも外でも遊んでいるから平気

親が忙しいから、材料も調味料も吟味できない加工食品や外食で

子供の食事を済ませることも日常だった

楽しく食事できていたからいいでしょう

親が疲れて暗い顔をしているくらいなら

出来合いのお弁当でも笑っている方がいいなんて言葉もあります

 

でも実はそれら全てが、子ども自身が人間として育つためには

あまりにも不自然ではないでしょうか

不自然なものに囲まれて育った子が、

自ら生きるために努力と工夫を惜しまない、という人間としての能力を

全力で発揮できるでしょうか

 

気づいたら、引き返してください、今すぐに

もう手遅れだ、なんて諦めずに、取り戻す努力をするだけです

取り戻せます

大人が自分たちで、自分たちだけの都合でこしらえた環境なんですから、

自分たちでぶち壊すことはできるはずです

もしかしたら

最後の文章にあったように

自分自身より子どもが大事、なんてとっくに思ってなくて、

子どもより自分自身が大事なんだと最初から思っていたとして、

それならそれで、よーく、考えてみてください

幸せですか?

 

そして、

家族は、あなたといて、幸せですか?

 

ためしに、不自然なものをひとつずつ、意識的に排除してみてください

いちばん、自然に近い存在、子どもたちが、その成果をまず見せてくれるはずです

 

そうしたらこの上ない幸福感に包まれるはずです

わたしたち、親も

ぷろふぃーる
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